イレズミ/タトゥーはポリネシア〜太平洋諸島〜中国南部〜日本の古代海洋系民族に共通の文化です。

刺青は、中国で古くは”鯨面文身”(げいめん ぶんしん)と呼ばれておりました。

”鯨面”とは顔に入れるイレズミ、”文身”とは身体に入れるイレズミを指す言葉です。

西洋でイレズミを指す”タトゥー”とはタヒチ語の”タタウ”(棒の先の針を叩いてインクを肌に入れる動作が言葉になったもの)とされておりますが、これはもとを辿れば全て同じカルチャーの流れの中で受け継がれてきたものです。

ポリネシア〜太平洋諸島〜中国南部〜日本へと繋がる壮大な文化伝達の歴史について、現時点でわかっていることをベースに推察してみたいと思います。

1.人と文化はどのようにして日本にたどり着いたのか?

ホモ・サピエンスが初めて海を渡ったとされるのは、4.5万〜4万年前のこととされており、この太平洋〜アジア近辺の海洋移動は推定して約3万年前に行われた可能性があるそうです。
現在の東南アジア付近は、最終氷期という気温の低い時代。日本列島の陸地も現在よりも広く、海にも浅い部分が広く広がっていたそうです。

ナウマン象が闊歩する当時、本州と九州と四国は一つの巨大な島を形成していました。屋久島と種子島がつながっており、奄美大島や沖縄島、宮古島、石垣島といった島々も大きな島として繋がっていました。台湾は島ではなく半島を形成していました。日本列島には南、西、北の3方向からの流入ルートが想定されておりますが、今回は主に南方向からの流入ルートについて点と点をつないでみます。現在の琉球の島々からは、旧石器人の骨や石器などの遺跡が次々と出土しています。石垣島からは2万5000年前の人骨が出土。つまり縄文時代が始まるさらに1万年以上も前に生きていた人たちが、海を越えて石垣島へやって来ていた痕跡が残されているのです。様々な痕跡から推定すると、当時はまだ半島だった台湾から〜西表・石垣島までの広い範囲で旧石器時代に旧石器を携えた海洋系民族が海を渡り、文化風習を伝承したことが推定されているのです。

現在、島々が連なっている東南アジア周辺にはスンダランドと呼ばれる沖積平野の広大な半島が形成され、その南東側にはサフルランドと呼ばれる巨大な大陸があったそうです。
つまり今のオーストラリアとニューギニア周辺の島々が巨大な半島、大陸群を形成していた訳なのです。

このスンダランドからサフルランド〜中国南沿岸〜日本までの想像を絶する広い海域において、海洋系民族が海を越えて渡った形跡(文化的痕跡、類似性)が残っているのです。

なぜアジア太平洋地域で鯨面文身の文化が伝承されているのか?
それは黒潮の海流を利用し丸木舟で海を渡る海洋系民族が文化を伝達したからに他なりません。

2019年7月、国立博物館がおこなった公開実験で、手作りの丸木舟により台湾から与那国島までの航海を成功させました。

このようにして数万年前の人類は海を超えて文化を拡散したと推定出来る訳なのです。

2.古代中国に残る日本のイレズミの痕跡

しかし、こうした海洋系民族は文字を持たない民族が多く、記録が残されていないため、タトゥー(鯨面文身)が歴史に登場するのは、さらにもっと後の中国王朝時代となります。

現存するアジア最古の文献では、中国の呉越時代(907年)の呉王が長江以南の海岸部に居住していた白水郎(海女)の文化風習を模倣し自ら鯨面文身をおこない、出身地の北朝には戻らないことを決意したとされる故事が存在しています。

また、さらに後の長江河口部にできた三国時代の呉の王である孫権も鯨面をしていたとあります。

つまり中国では鯨面文身は中国南部の海洋系民族の風習であると認識されてきた歴史が有ります。

また魏志倭人伝にも、古代中国王朝の「夏后少康(かこうしょうこう)の子が、会稽(かいけい:産地の名称)に封じられ、断髪文身(髪を短く切って、体にイレズミを入れる)、もって蛟竜(こうりゅう)の害を避く(さく)」と記されています。

これには

・水中の海獣や災難などから身を護る魔よけのまじない

・いくさのときの弾除けや威嚇、自分自身を鼓舞するため

・巫女などの霊媒師の現実世界の人間と自分を区別させるための権威的・憑依風習

といった目的があったと考えられます。

ここで日本に目を移しますと、3世紀ごろの北九州の倭人について記した中国の書物『魏志倭人伝』における記事が、日本列島のイレズミに関する最古の記述として有名です。

ここには「男子は(身分の)大小なく、皆が黥面文身」との記述があります。img_5

・倭の海洋民は水中に潜り魚貝を捕らえることを好んでいた。

・イレズミは大魚や水鳥を避ける呪術要素であったが、後には多少とも装身の飾りにされた。

・地域によって文身(身体へのイレズミ)は文様が異なり、入墨の位置や大小によって社会的身分で尊卑の差を表示していた。

とされています。

『後漢書』東夷伝にもほぼ同様の記事があるそうですが、これは北九州の肥前・筑前の玄界灘沿岸部での倭国への使者の見聞とみられています。

これら倭国の人々のルーツを調べてみますと、人骨のDNA調査や、渡来時に日本列島にもたらした稲のDNA調査により、中国南部長江流域の「越人」(えつじん)とみる説が有力です。

この「越人」は身体に文身を入れる風習があったことがわかっています。

越では銅の生成技術に優れており、1965年に湖北省江陵県(こうりょうけん)望山1号墓(ぼうざんいちごうぼ)より表面が硫化銅の皮膜で覆われさびていない状態で、越王勾践剣(えつおうこうせんけん)が出土し現在も保管されています。ここでは越人の銅像も出土し、写真のようにツーブロック風の短髪に、身体には文身(身体へのタトゥー)が施されている姿となっております。

『荘子』逍遥遊篇によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨を施していたとされ、『墨子』公孟篇や『史記』越王勾践世家などにも同様の記事が見られますが、銅像の姿がこの記述を裏付けるものとなりました。

日本人がどのように形成されたのかについては諸説ございますが、科学的な動かぬ証拠から類推しますと稲作やイレズミ(文身)の文化を携えて日本列島にやってきた越人が「倭国」という新しい国を独立させたと見る説が有力と言えるでしょう。

しかし日本の古代書物には、この越人〜倭人へとつながる文化や人の流れが描かれておらず、当時の日本列島に住んでいた倭人のイレズミについてのイメージは中国の古代書物への記述に頼るしか有りません。

その記述によれば、地方ごと、部族ごとに違うパターンのイレズミが施されていたことがわかります。

・海洋系民族の久米(くめ)、隼人(はやと)、阿曇(あずみ)、宗像(むなかた)

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ちなみに現在の台湾で継承されているイレズミの写真が下記の写真です。どうみても同じ流れの文化であることがわかります。

・北方ルートからの蝦夷などの狩猟民族

下記はアラスカ周辺の北方系狩猟民族のイレズミの写真資料ですが、日本に移動してきた北方系の先住民も同様の文化を持っていたことが類推されます。

・力士や巫女(みこ:シャーマン)など、神に使える特殊な職業

・贄部(にえぶ)=動物を飼育、屠殺し食用に供する人々(鳥飼部:いのかいべ 猪飼部:いのかいべ)=特殊階層による専業制

古代日本の支配階級は動物の飼育〜食肉への加工、皮革製造を野蛮で劣る狩猟、漁労先住民の汚れ仕事と捉えており、これらの特権的な仕事に就いていた人々は独自の文化を継承していた可能性が高いのです。

以上のように、中国の古代文献に記された記述では、古代の日本では所属する社会によって、それを示すための独自のイレズミが継承されていたとされています。

3.古代日本に残るイレズミの痕跡
ところが日本に残されているタトゥーの記録は、やや風情が異なります。
まず『古事記』の神武天皇東征の条には、「大国主命(おおくにぬしのかみ)の黥利目」(さけるとめ:目の周辺に刺青を施した鋭い目)の記述がみられますが、これは目の周りにアイライン状の刺青をした鋭い目という意味の記述なのです。※古事記岩波版「周辺に入れ墨をした鋭い目」と記述
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さらに『古事記』の神武天皇段にも、神武天皇(初代天皇)から三輪の大物主神(おおくにぬしのかみ)の娘・伊須気余理比売(いすけひよりひめ:神武天皇が求婚した、後の皇后)への求婚の使者としてやって来た大久米命(おおくめぬしのみこと)の「黥ける利目」(さけるとめ:目の周辺に刺青を施した鋭い目)を見て、伊須気余理比売が奇妙に感じた、と記されています。

これらの日本神話の中の記述を見ても、日本では男女共にかなり古くからアイメイクに、現代でいうアートメイク(眉やアイラインへの刺青による化粧)を使用する習慣があった事が伺えます。

ただ、この記述でわかることは、当時の日本の支配階級が縄文系の海洋系民族などが顔に施していた鯨面タトゥーの風習を奇異に感じていたという事実です。

北方ロシア沿岸〜カムチャツカ半島周辺にはタトゥーカルチャーの痕跡が残っており、沖縄〜アイヌにもタトゥーカルチャーの痕跡が残っておりますので、彼らが奇異に感じる筈はなく、だとすれば顔へのタトゥーを奇異に感じた当時の日本の支配階級は西ルート、つまり中国や朝鮮半島から流入してきた、既にタトゥーの文化風習を失った貴族たちなのではないか?と推定することも出来る訳です。
ですから文身タトゥーの文化を持っていた「越人」ルーツの倭人と思わしき人物は、古事記や日本書紀の中にはややアウトサイダー的な立場、つまり「支配階級の配下につきつつも文身タトゥーなどの野蛮で原始的な文化を持っている使用人」として描かれているのかもしれません。

『日本書紀』第17代 履中天皇元年四月条には、住吉仲皇子(すみのえのなかつおうじ)の反乱に加担した阿曇連浜子(あずみのはまこ)に対し、本来は死罰に当たるのを免じて罰として黥面をさせ、当時の人はこれを「阿曇目」(あずみめ)と呼んだとの記事があり、第21代 雄略天皇十年十月条には宮廷で飼われていた鳥が犬にかみ殺されたので、犬の飼い主に黥面して鳥飼部としたとの記事があります。

ここで着目したいことは、古代の日本で鳥獣の飼育(と、屠殺、食肉への加工)が、タトゥーの有る先住民系(縄文系原日本人)の被差別階級の専業的な仕事としてみられていた可能性が高い点です。犯罪者に黥面を入れた理由も、支配階級からみた被支配階級の野蛮な先住民というレッテル貼りが目的だったのではないか?と推定される訳です。

『日本書紀』第12代 景行天皇(けいこうてんのう)27年二月条には、東国(東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方)から帰還した武内宿祢(たけしうちのすくね)の報告として、北上川流域にあったとみられる日高見国の蝦夷の男女が髪を椎結いし文身して勇敢であると記されています。

武内宿祢は250年間に渡って皇室に仕えたとされており、古代史研究の世界ではあくまでも創作された人物とされておりますが、上記のような記述が見られるということは、なんらかの事実関係が存在していたと見るのが自然な流れでしょう。

このように日本の古代文献には

・アイライン状の黥利目はなにやら怪しく野蛮な人たちのもの
・そして顔に入れる黥面は、動物の飼育や解体に従事する被差別階級としてのレッテル貼りとしての刑罰
・北方民の蝦夷が身体に施す文身は勇敢なもの

と書かれており、同じタトゥーでも古事記や日本書紀を編纂した支配階級からは違う扱いを受けていたことが類推されます。
大和朝廷はイレズミを既に不要となった野蛮で古い文化風習とみなしており、当時はまだ完全に支配下に置かれていなかった東北地方以北に住む先住民、蝦夷の身体にみられたイレズミについては勇敢なものとみなしていたことがわかるのです。

まとめ

・古代の日本には南、西、北の3方向からヒトとカルチャーが流入してきた。

・縄文、弥生時代にいた古層の「原日本人」ともいえる人々は古代からの風習を守り、顔や身体にイレズミを入れていた。

・そのイレズミには部族や地方によって違いがあった。

・そのイレズミの目的は呪術的な効果を狙った”お守り”であったが、それが後に装飾的な目的や階級や身分を示す目的にもつながっていった。

・現在でもイレズミの痕跡が残っているのは、南方(ポリネシア、中国南部、台湾、沖縄)と、北方(イヌイット,エスキモー、アイヌ)であり、西方(朝鮮半島や中国内陸部)には痕跡が見られない。したがって、原日本人たる縄文、弥生のイレズミ文化も、南方ルート、北方ルートから人に移動に伴って流入した文化であると類推される。

・現在の日本皇室へと繋がる大和朝廷は、こうしたイレズミの文化を古く野蛮な過去の「蛮族文化」とみなしていたフシがあり、その価値観を元にして犯罪をおかした者へのレッテル貼りのイレズミ=刑罰へとつなげていった。

個人的には、現在まで続いている日本のイレズミ嫌悪に繋がる根っこが、ここに有るような気がしてなりません。

そして古代の日本でも、当時の「蝦夷」のように外国とみなされている人々のイレズミに関して「自分たちの階級ピラミッドの外の異族」だから別にそれはそれでいい、という見方だったのかもしれません。

最近の温泉タトゥー問題を鑑みても同じ流れで「外国人のタトゥーはOK」的な決まり事が散見されるようになっていることから、日本は相変わらずの「身分」「差別」制度の名残を維持する保守的な社会を構築し続けているのだなと感じざるを得ません。

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